郷土の偉人の教え

郷土の偉人の教え(6)

防潮堤の建設で村民の命を守った和村幸得

昭和22年から40年間、普代村の村長を務めた和村幸得は、過去の教訓をもとに津波防災に力を注ぎました。在任中に建設した防潮堤と水門は東日本大震災の大津波から村民の命と集落を守り、被害を最小限にとどめたとして注目されています。

村民の幸せを願って40年

和村幸得は明治42年5月、普代村に生まれました。盛岡中学(現盛岡一高)から慶応義塾高等部に進みますが、健康を害して普代村に帰り、後に県庁職員になりました。その安定した職をなげうって村長選挙に立候補したのは38歳の時です。三つどもえの激戦の末、昭和22年4月、見事に当選を果たしました。

新しい村のリーダーとして歩み始めた当時、村は“陸の孤島、日本のチベット”といわれ、生活水準も低く、また敗戦ショックもあって荒廃した空気が漂っていました。若き和村村長は、「貧困の駆逐」を最大の目標に掲げ、一貫して力を注いだのが水産振興です。漁港整備や栽培漁業の取り組みは、昭和50年代になって大きく花開き、県内最低だった住民所得も上位を占めるようになってきました。

和村幸得が村長を務めたのは昭和22年から昭和60年までの10期40年。その間、優れた行政手腕と気さくな人柄で村民の信頼を得、村勢を発展させました。和村村政の数ある功績の中でも特筆されるのは、大津波から村民を守った堤防の建設だと言えます。

防波堤と普代水門の建設

明治29年の三陸地震や昭和8年の三陸沖地震津波で大きな被害を受けた村は、防潮堤の建設を切に願っていました。和村自身も昭和8年の三陸津波を経験しており、後に著した回想録『貧乏との戦い四十年』では、「阿鼻叫喚とはこのことか。堆積した土砂の中から死体を掘り起こしているところを見た時には何と申し上げてよいか、言葉も出なかった」と述懐しています。

防潮堤設置を求める声は、村長二期目の頃になるといよいよ熾烈になっていきます。村では県の土木部はもちろん、建設省にも陳情に出かけました。その努力が実って、昭和37年に延長850メートルの防潮堤が完成。昭和43年には県営事業で太田名部に高さ15.5メートル、全長155メートルの防潮堤を建設しました。

しかし、昭和50年に三陸鉄道が開通し、普代駅が既設防潮堤の外側に設置されたことで、周辺の宅地化が進み、明治の三陸地震程度の津波が来たら人家や住民の命を守りきれない事態が予測されたのです。そのため、普代海岸の津波対策が検討され、県営事業として昭和48年から12年もの歳月と総工費35億6千万円をかけ、59年3月に普代水門が完成しました。水門の規模は、普代村で1096人の死者を出した明治29年の三陸地震津波高を基準に設計されました。「防災事業よりも集団家屋移転のほうが経済的ではないか」という考えもあった中で、和村は土地の有効利用、生活環境の整備を計画的に推進することができるという効果の大きさなどから着工を決定したといわれています。

高さ15.5メートル、総延長205メートルの普代水門は、「万里の長城」と呼ばれた田老の防潮堤を上回るものであり、「ここまでの高さは必要なのか」「金はほかのことに使えばいい」など反対する声もありましたが、和村は「二度あることは三度あってはいかん」と、決して譲らなかったと言います。

東日本大震災直後の普代川水門

東日本大震災直後の普代川水門

2011年3月11日に発生した東日本大震災で、普代村は防潮堤の外にあった漁業施設は津波被害に遭ったものの、防潮施設に守られた内側では死者0(行方不明者1)、人家の被害もなく、沿岸部の他の自治体に比べて被害は軽微にとどまりました。和村の津波防災にかける熱意が、村民の命と集落を守ったのです。

昭和62年4月30日、村長を退任するに際して和村は「村民のために確信を持って始めた仕事は、反対があっても説得してやり遂げてください。最後には理解してもらえる。これが私の置き土産の言葉です」との言葉を残し、普代村名誉村民第一号に選ばれています。

(編集部)

※参考文献 「貧乏と戦いの四十年」(和村幸得)、「岩手の先人」(日本教育界岩手支部)、「広報 ふだい」(普代村)

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