エリア13

地区だより(8)

豊田城と藤原清衡

奥州市医師会 柏木 柏

昭和15年秋、戦時色が一段と強まって来た時、私は中学生であった。歴史の先生が突然私の家を訪れ「豊田城を見たい。案内せよ」とのことである。千年も前のことを調べる先生に呆れたが、反面戦時色に染まらないこの学究肌の先生に私は敬愛の念を抱いた。以来豊田城は私の脳裏から離れることなく今日に至っている。

私の家から自動車のメーターを見ると丁度2キロメートルに豊田城がある(当時の城は石垣を組まない丘陵である)。現在豊田城には説明板があり、簡にして要を得ているので転記する事とする。以下説明板の文面である。

「豊田館は亘理権太夫経清と其の子清衡(平泉初代)の館であった。経清は初め宮城県亘理地方を支配する国府の官人であった。

後に奥六郷の主、安倍頼時の娘婿となり豊田館に住した。

平安朝廷と安倍氏の戦である「前九年の役」で、経清は初め朝廷軍の将、源頼義、義家父子の麾下に属したが、途中から義父安倍頼時に味方し、源氏とこれを援ける秋田の清原氏の連合軍と戦い、最後は厨川柵で処刑される。時に康平5年、清衡7才であった。母は清衡を連れて敵将清原武貞の後妻となった。

20年後、清原氏の内訌から起った「後三年の役」で源義家の援けをうけて勝ち残った清衡は、豊田館に帰り奥羽を治めていたが、康和年間に平泉に移り藤原四代の祖となった。安永3年銘の石碑に、ここが藤原経清、清衡父子の館跡であると刻みこまれています。」と書いてある。

そしてボロボロになった豊田城跡碑が現在残って建っている。清衡は、藤原の父と安倍の母の間に豊田城で生まれた。父は重傷を負い敵将の前に引き出され、切れない刀でゆっくりゆっくり妻子の目の前で首を刎ねられる。母は清衡を連れて敵将と再婚、敵将の先妻の子眞衡と、敵将と母の間に新しく生まれた家衡と、この3人が絶対うまく行く訳なく、果して家衡は豊田城に清衡を襲い妻子を惨殺する。誠に数奇な運命を辿ったが、彼は復讐を捨てて、亡き戦没者を弔うべく平泉に移り絢爛豪華なる中尊寺を建設するのである。

前九年の役では頼時亡き後も安倍一族が貞任を中心に一致団結、刀折れ矢尽きる迄戦い抜いたのには心が打たれる。康平6年、藤原経清、安倍貞任、安倍重任の首が京都に送り届けられた。都はそれを見ようと大変な人出であったという。この首を貰い受け豊田城の東南、五位塚に清衡が父の遺骨を葬った古墳がある。毎年9月17日命日に土地の人々が集まり墓参している。

後三年の役後、都では陸奥守源義家が清原一家の内訌にかかわり過ぎたとして其の任を解かれ、清衡の王者到来の大舞台が整ったのである。


豊田館案内板

豊田城趾碑文

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豊田館趾全景
豊田館趾全景

豊田城趾碑
豊田城趾碑