空喰書話

第2回

蜂窩織炎からコロナまで

書家 沢村 澄子

今年に入ってからの忙しさは度を超えていた。自分一人では捌き切れず、送り迎えを頼むなど夫の手を借りることもしばしば。家事も杜撰になった。そして杜撰が放棄となり、1日の内の1食が外食に、それが2食に…と進むうち、わたしの体重は3カ月で5キロ増。夫も目に見えて大きくなった。マズイ!しかし、それでも炊事の気力は追いつかない。夫はといえばまた、家では食せない味の、油分多いメニューを喜んでいた。

春になり、あれこれ重なっていた仕事をようよう乗り越えたかと思われた頃、足が痛むと夫が騒ぎ出した。シップで冷やしても一向に良くならない。捻じった覚えもぶつけた覚えもないと言うが、腫れは日に日に大きくなる。ある朝ついに「歩けない」と言い、いやその前に立ち上がれないのでトイレに行けず、抱きかかえて立ち上がらせたものの一歩が踏み出せず、「痛い、痛い!」と叫ぶばかり、ついに廊下で漏らしてしまった。夫はこの時、人生初の〝恐怖〟というものをその痛みに覚えたと言い、わたしの頭には得体の知れない不安と〝介護〟という言葉がよぎった。

丁度ゴールデンウイークの真っ最中だったが、とにかく行こう、と当番医を訪ねた。1番の番号札を握って駐車場で開診を待つ間も夫は痛みを訴え続け、不安でたまらないのだろう、急に携帯を取り出し「いやー、元気?今、病院に来ててサ、捻挫だと思うんだけどこんなに痛いことあるのかな?」と電話したのは高校時代の同級生。今やNHKの番組にも出演する整形外科の権威だ。それがあっさり終わったのでどうしたかと思ったら、「今、メルボルンで学会中だって…」。夫の不安は解消されなかった。が、わたしの方はといえば、このなりふり構わず藁にもすがる様子がどうにも可笑しく、内心笑って不安を逃れた。

診断は蜂窩織炎。水虫を放置してあったところへ疲れから抵抗力が落ち…。「ちょっと奥さん、見てください」と呼ばれて初めて夫の水虫を見たが、そのまま卒倒しそうだった。この日からお風呂は必ずわたしが先に入る。いや、あの足が浸かったお湯には絶対入れない。

抗生物質を処方され、「悪くすれば両足切断にもなりかねない」と生活の見直しを促されて、帰宅。数日はうまく歩けなかったのでやはり介助が要った。そして、それからも遅々としてその足は良くならず。

進展があったのは、夫が2カ月に1度血圧の薬をもらいに行くいつもの内科だった。血糖値が高いと、糖尿病治療を勧められたらしい。蜂窩織炎が完治しないのもこのせいではないかと。夫はひと月の猶予を願い出て、食事療法を始めた。といっても、これはとても個人的なやり方で、糖質をほぼ摂らないという徹底的頑固。朝昼の食事は抜き、夜もオカズしか口にしない。しかも、ハンバーグを出したらケチャップに糖質があると拒まれ、翌日には冷ややっこの醬油も却下。調味料もほとんどに糖質を含んでいるからダメだと言われ(夫からである。医師からではない)、味の何もついていないサラダや、塩・胡椒だけがふられた肉魚が食卓に並んだ。

夫は食べる傍らにスケールを置き、食べ終えた枝豆の殻を測り、身体に入った量を割り出して、携帯でその糖質量を調べ、記録。食べるものの逐一を吟味、測量し、書き付けた。炊飯器は稼働しなくなり、パンを焼くこともやめ、ひと月が過ぎる。

それで、血糖値はよくなったのだそうだ。これであればまぁ、薬は飲まなくていいと言われたと、夫は内科から帰ってきた。しかし、浮かない顔だと思ったら、今度は尿酸値に問題があるという。半ば仰天しながら、イカ、エビなどを省けばいいかと聞いたら、肉魚みなダメだと言う(夫がである)。「野菜だけ食ってればいいんだ!」夫はそう言い放ち、それからいよいよ食べなくなった。

7月、このタイミングでわたしが仕事で沖縄へ行くとなると、夫も一緒に行くと言い張った。向こうで食べられるものがあるのか不安だったし、ずっと外食になるのである。しかし夫は付いて来て、そこでは全く自由に食べ、泡盛に糖質はないと誰よりも飲み、酔えばいよいよ歯止めが効かず、あの節制は何だったのか、と思われるような1週間を過ごして、盛岡に帰るとまた食べなくなった。沖縄での悪行三昧を無にしたいのだろう。以前は食べていたトウモロコシにも「こんなものがどうして食えるか!」。

それからは、あれも食べず、これも食べず。その甲斐あって、沖縄から戻っての3週間で夫は8キロ痩せた。向こうで世話になった人たちにそれを知らせて「凄い!」と言われ、やつれた顔を得意で満たし、そして、昨日、コロナに罹った。

You are what you eat. 家庭の食を管理できなかったわたしは、躓き始め、随分自分を責めたのである。その後の負の連鎖にも責任を感じ続けていた。しかし、今日思うに、Your life is yours. My life is mine. 誰が誰を管理できるものか。わたしのために、わたしは、食べる!


さわむら すみこ (文と書)
Sumiko Sawamura

1962年大阪生まれ。書家。新潟大学教育学部特設書道科在籍中から個展による作品発表を始め、これまでに百回を超える。書を「書くこと(Writing)」と定義。「描かない(Not drawing)」という姿勢で自作と絵画を分別、2001年度岩手県美術選奨、2019年第29回宮沢賢治賞奨励賞、2023年第73回芸術選奨文部科学大臣賞受賞。2023年10月23日-10月28日 ギャラリー彩園子(盛岡)、11月24日-12月3日 ギャラリーアビアント(浅草)で個展。
https://sawamura-sumiko.work

沖縄での初個展は那覇市浮島通りにあるギャラリー〝あおみどりの木〟にて。その前身は薬局で、当時沖縄では薬局が病院代わりを果たしていたという。その頃の温度計や時計は今も健在だった。古い壁に残された○や□は梁の跡だろうか。その横に「心」。
(撮影:澤村明彦)

2階は和室。柱に「ちり際は風もたのまずけしの花」(其角句)。陽が動くにつれ、窓枠や柱の影も移っていった。4年をかけてリノベーションされたというこの佇まいには、古いものと新しいものが〝たった今〟で綴じられているようだった。
(撮影:當銘すみれ)

外観は青緑色のあおみどりの木。窓ガラスに貼った句は「一家に遊女もねたり萩と月」(芭蕉)。
(撮影:ヨシカワサトル)

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