災害医療現場レポート

災害医療現場レポート(2)

私の3.11

釜石医師会 藤 井 敏 司

3月11日の大震災の直前、私は、分院である吉里吉里診療所から、本院に戻り、午後の診療開始前のひと時を、自宅3階の寝室のベットに横になってテレビをみておりました。突然の大地震情報に慌ててベット脇のサイドテーブルの下にもぐり込みました。その直後に、今迄に経験した事のない大きな揺れに襲われました。地震には慣れっこの私も、さすがにその揺れの大きさに放心状態でした。大地震の時の為にと用意していた鉄製の頑丈なサイドテーブルが役に立ちました。その後、院内の状態を見ようとドアを外に押しましたが開きません。廊下の大きな本棚から本が全部飛び出し、廊下が本で埋まってしまったのです。「地震の時はまずドアを開けときなさい」とはこういう事だったのか、勉強になったなーと呑気な反省をしながらも、何とかドアの上の方をこじ開けそのすき間からやっとの事で脱出できました。

その後、私は周囲の家の状況を確認しようと3階の玄関から外に出て、周囲を見ると建物の倒壊はなさそうでしたが、右手の海側に白い煙が立ち昇っているのが見えました。私は地震の為に火事が発生したと思い、火元を確認しようと急いで、屋上に駆け上がり海側を見ると、そこに見えたのは、横一線に並ぶ水煙でした。私は、瞬間的に津波だと思い、すぐに階段を降り、下にいた職員に「津波だ!すぐに上がれ!急げ!」と大声で叫びました。下にいた職員と一緒に屋上に上がり、周囲を見渡すと、そこは、すでに水海の中でした。津波は静かに音もなく家々をことごとく破壊し流し、すでに行き過ぎていたのです。その不思議な静けさと想像を絶する圧倒的な自然の力の前に私達は、ただ呆然と立ち尽くしておりました。当院へは、三陸津波も、チリ津波も水が来ていなかったので、正直の所今回の大地震でも津波の事など全く頭になかったのです。たまたま当院が鉄骨の頑丈な3階建てだった為に我々は助かったのです。後で聞いた話しですが、2階建てと3階建てでは耐震性を高める為、柱の太さが全然違い、その為津波に強く、特に当院は1階が駐車場で壁がなく、その分抵抗が少なく、それが良かったとの事です。

私達は、約1時間程屋上で、家や瓦礫等が津波で押し寄せたり、引いたりする何とも言えない非現実的な世界をただボーッとして見ておりましたが、病院が海に近い為か、人が流される光景を見る事はありませんでした。しかし、その時、津波の水際では、地獄のようないろんな悲劇が繰り広げられていたのです。

私の知人の歯科の先生は、引き波で流されそうな職員2人の手を両手で1人ずつにぎり、流されるのをこらえていたけれどそのうち1人の職員の手が離れてしまい、その職員は流され亡くなったそうです。

津波の水が引き始めてた頃に、山側のあちこちから火事が起こりました。山側からの強い風に煽られて、水が引くにつれて火事が瓦礫や残った家を巻き込みながら、我々のいる海側に迫って来ます。日が落ち、電気もない真っ暗な闇の中、赤々と燃える炎の波が今度は、山から海側へとさっきの静かだった津波とは打って変わってバチバチと大きな音をたて、ドカーンとプロパンガスのボンベを爆発させながらこちらへと近づいて来ます。3階迄入った津波も水が引き、その中で我々は仏壇にあった大量のロウソクを見つけ、それを皿の上に何本も立て、それで明かりと暖をとりましたが、火事の炎が窓に赤々と映りバチバチと言うその音と共に私達を恐怖のどん底に落とし入れました。

私達は、火事が病院にいつ飛び火するかという極度の不安の中、15分毎に交代で屋上に行き、炎の近づき具合をチェックし、一睡もする事なくただ夜が明けるのを今か今かと待ちながら、恐怖の一夜を過ごしました。

やっと夜が明けた頃、屋上に上がった私が見た光景は辺り一面の瓦礫の山と、海から昇るいつも以上に強く眩しいばかりの朝日、その両者のコントラストが天国と地獄を上下で同時に見ている様な何とも言えない異様な世界で、私には、自然の強さを思い切り見せつけられているように感じられました。そんな時、「オーイ」と火が迫る山側の建物の方から人の声がし、振り返ると屋上に数人がこちらに向かって大きく手を振りながら「そちらは何人いますかー?今、ヘリが救助に来るそうです」と叫んでおりました。「了解しましたー。こちらは、全部で4人います。」と私も大きく手を振り返しました。どうやら、山の上の城山体育館にすでに到着していた自衛隊と屋上から連絡を取り合っていたようです。海側の植田医院の屋上には、植田先生を含め18名の人達が避難していて、予めお互いの無事を確認していたので、私はすぐに植田先生にヘリの事を大声で伝え、植田医院にいる人数を確認し、それを山側の方々に伝えました。

その後急いで3階に降りて職員にその事を話し、すぐ準備するよう指示し、私も必要最小限の物だけ持ち、ヘリが来るぞと皆で喜び勇んで屋上に駆け上がりました。すると病院の下から「オーイ」と人の声がし、下を見ると自衛隊員が病院の前に数人いてこちらに手を振っていました。「そこから下に降りれますか?」と聞かれ、私は予め夜中に1人で下に降りてそのルートを確認していたので、すぐさま「降りれますよ」と答えました。すると「それでは、気を付けてゆっくり下に降りて下さい」と指示され、ヘリで避難する予定が私の一言で徒歩での避難に変更になりました。私達4人は自衛隊の指示に従いながら、瓦礫の上をハアハア言いながらひたすら山の上の城山体育館を目指し歩き続けました。その頃には、火事は当院のすぐ目前迄迫っていました。でも結果的には幸いにも火事は当院のすぐ手前で鎮火しました。

私は休む間もなく救護室で、前日から避難していた内科と外科の開業医の先生方2名と合流し、当院の婦長と共に患者さんの対応にあたりました。その時、城山体育館は山火事で囲まれ危険な状態にあり、火でもうすぐ山道が通れなくなるとの事で、歩ける避難民と共に当院の事務員2名は、安全な場所へと避難しました。その日は、強風で火の勢いが強く残った我々は、半分死を覚悟しながらも、坦々と診療を続けました。

被災時は、ウィルス性胃腸炎が流行しており、城山体育館では、大槌小学校の生徒が集団で避難し、全員が大部屋に入っていた為、次々にウィルス性胃腸炎を発症しました。薬も体温計もない状態でしたので、1〜2時間程度、救護室の一部を区切ってマットに横にさせて、嘔気が落ち着くのを待ち、顔色が良くなった頃に順に部屋に戻しました。ただ最後に残った1人が脱水がひどく、軽度意識障害もあり苦慮しておりましたが、その時幸運にも、日赤の先生方が回って来てくれて、点滴も少量持って来てくれたので、その点滴にて軽快し、事無きを得ました。

大人の患者も、喘息や癲癇、糖尿病、高血圧症の患者さん達が薬が切れた事により発作を起こしたり、血糖や血圧を上げる等、いろんな患者が救護室に来て我々は24時間体制で交代で仮眠をとりながら対応しました。特に1日目、2日目は、1日に小さいおにぎり1個、水も小さいペットボトル半分程度と厳しい環境の中で診療をしていましたが、一食抜いただけでもお腹がすく私が、全く空腹感を感じないという不思議な体験をしました。4〜5日後、避難所の人々はほとんど安定し、日赤及びDMATの先生方が応援に駆けつけてくれたので、我々は、それぞれ家族のもとに帰りました。

私は過労の為体調を崩し、盛岡で検査入院し、ベット上で退屈な日々を過ごしました。体調が戻るに連れて、大槌のかかかりつけの患者さん達から当院の再開を希望する声が多いとの情報を多方面から聞き、生まれ育ててもらった地元への恩返しの意味を込め、本院と分院は共に全壊したので、プレハブでの病院再開の意志を決め、ベット上から携帯で、地元の仲間と連絡を取り、再開の準備を進め、5月の連休明けから町内の花輪田地区にてプレハブの仮設診療所を開業しました。

開業当初は、A型インフルエンザ、新型インフルエンザや一部B型インフルエンザが流行し、患者さんを駐車場の車の中で待たせて隔離し、車中で診察及び検査をしました。インフルエンザの流行により私は隔離室と点滴室の必要性を感じ、プレハブを増設しました。その直後に手足口病が流行し、今回の手足口病は口腔内アフタが強く、水分も取れなくて脱水になる子供が多かったので、隔離室と点滴室がさっそく役立ちました。

再開当初は、瓦礫による粉塵の為、気管支炎や肺炎など呼吸器系の疾患が多かったので心配しましたが、現在、瓦礫も減り被災前の状態に戻りつつあります。子供達の表情は、皆元気に見えますが、それぞれ個々にいろんな事情をかかえた中で懸命に頑張っているように思います。大人の被災者は、被災後のテンションの高い状態が落ち着き、最近は現実と直面し、今後の事を考えるにつけ、うつ状態やそれに基づく不眠など精神的な問題をかかえて来院しております。

当院は12月22日に現在の場所からすぐ近くで再建された大型ショッピングセンター、「シーサイドタウンマスト」の2階に入る予定です。マストは、スーパーや銀行などあらゆる店が入る為、マストが再建されれば避難地から大槌町に戻りたいと言う方がたくさんいます。その為私は、職員と共に今後医療のみならずマストの復興ひいては町の復興に協力出来ればと、ソラナックスを飲んでテンションを上げ毎日の診療に頑張っています。

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被災した当院

津波による被害の爪痕(被災した当院)
津波による被害の爪痕(被災した当院)

プレハブの仮設診療所(当院)と調剤薬局の菊屋さん
プレハブの仮設診療所(当院)と調剤薬局の菊屋さん