災害医療現場レポート

災害医療現場レポート

東日本大震災 その後

北上医師会  柴 田 雅 士

平成23年3月11日に起きた歴史的大震災から約2カ月過ぎた5月9日、私は陸前高田市の検案に向かう警察の車内にいた。県警からの送迎車なので白黒パンダ車を期待したのだがごく普通のワゴン車だったので少し拍子抜けだった。車窓からは色とりどりのチューリップと菜の花畑そして山々の鮮やかな新緑の若葉が眩しく、春から初夏を感じさせる光景を見ていると少し眠くなりうつらうつらしていた。日本中を震撼させた大災害のことやこれから検案に行くことなどつい忘れてしまいそうであった。

予定より早めに現地に到着したため、警察官のご好意により陸前高田市の被災地を見ることができた。見ると聞くとは大違いとはよく言ったもので本当に何もなかった。わずかに残った高田病院などの数箇所の建造物以外に跡形もなく流された光景に唖然として声もでなかった。被災された気仙中学校を目の前にして3階まで襲ってきた津波の巨大さにただただこれが現実の世界かと疑った(写真@)。

興奮冷めやまぬまま車は来た道を10qほど引き返した山間にある検案場所の小学校に着いた。校庭には30個あまりのご遺体を安置するプレハブが建っていた。車を降りるとすぐにご遺体特有の異臭が漂ってきた。眼にしみる酸っぱい様ななんとも言えない悪臭を大学病院勤務以来久々に嗅ぐことになった。検案は午前と午後合わせて5例行った(写真A)。

海中や瓦礫から発見されたご遺体はどれもこれも全身の損傷がひどく、躯全体は腐敗ガスで膨らみ舌は腫れあがり手足は折れ曲がっていた。肌は蝋のように半透明な灰色でヘドロの色素が染み付いたのだろうか、洗っても落ちない群青色の刺青にも似た斑点が散在していた。なかには頭皮は半分削げ落ちて一方の眼球は飛び出し片方が無くなったものもあった。いわゆる土左衛門である。もちろん異臭は半端なものではない。僅かに残った爪のマニキュアなどから辛うじて若い女性と判断できたものがあったが、あまりに損傷が激しいと恥毛に残っている僅かな白髪から年齢を40〜70歳と判断するしかないご遺体もあった。午後に発見されたご遺体は、すでに白骨化しかけていて体中の穴という穴から蛆が湧いていた。いままでにも沢山のご遺体を見てきたが、蛆が湧いたご遺体は初めての経験であった。

昼に休憩時間をもらったが休憩所などはなかった。警察官や係員は屋外に椅子を出し座って談笑しながらおいしそうに弁当を食べていた。慣れとは恐ろしいもので、よくこの悪臭のなかで飯が食えるものだと感心しながら、私は校庭に駐車した県警のワゴン車の内で休憩を取った。少しでも食べておかないとと思いながら小さいほうのおにぎりを一つ食べた。少々のことには動じないと思っていたが、さすがにこの悪臭の中では食欲がなかった。

午後4時頃、検案は終了した。帰宅する車中で誰しもが経験するわけではない貴重な検案をさせて頂いたことに感謝し、今日あったいろいろな出来事を思い出した。窓の外には一日中畑仕事していたのだろうか、老婆が桑を担いで家路についていた。世の中はいつも通りであり、何事もなかったようにただ時間が過ぎ今日一日が終わろうとしていた。夕日がだんだん西の山に沈み暗くなって、人の命の儚さや何ともいえない無常さを感じた。大津波で犠牲になった人々はさぞかし無念だったであろう。今日検案したご遺体が家族の下に戻られるよう願った。そしてこの震災は夢じゃなかった、本当に現実に起こった、だから決して忘れてはならない、そして永く後世に伝えなければならないと思った。これから時間が経過し復興が進み、もしかしたら震災の面影がなくなるほど発展変貌するかもしれないが、それでもこの災害の記憶は残さなければならないと感じた。最近、時間が早く感じられ追われるように日々を送っているなか、久々に一日が長く長く感じた。

検案した日から約3ヶ月して同じ陸前高田市に今度は診療の手伝いで訪れる機会を頂いた。仮設診療所は高田第一中学校の敷地内にあり、表側の校庭は仮設住宅で埋まっていた。診療所は校舎の裏手の空き地にありトレーラーハウスとプレハブの簡単な造りであったが、エアコンが効いていて建物の中は涼しかった(写真B)。

午後3時頃到着し、待つこと30分して一組のご夫婦が診察に訪れた。いつも服用している降圧薬をもらいに来た方であった。診療を終え少し時間があったので、家族や親戚を亡くし口にはしたくないことかもしれないと思いながらも実際に津波に遭われたことをお二人に訊ねてみた。意外にも奥様の方が明るく話し始めた。「うちのお父ちゃん。やめればいいのに津波さ呑まれたおふくろさんを助けんべとして飛び込んだのさ。おかげで肋骨を5ヶ所も折ってえらいめにあった」。結局、おふくろさんは救助できなく今も行方不明で、そばでばつが悪そうに頭をかいている旦那さんが妙にかわいく思えた。残された自分たちがいつまでも悲しんでいてはいけない、明日を信じてがんばって生きようとするご夫婦の気持ちが伝わってきた。診療は全部で5人ほどで、同行した外科の齋藤盛夫先生の診察は1人であった(写真C)。

短い時間の診療であったが、ここでも貴重な経験をさせていただいた。仮設診療所で働いている事務や看護師のスタッフは皆、明るく笑顔で患者様と接しているのを見て心打たれた。わかっているつもりではあったが、診察や医療行為は患者様のためにあるという地域医療の原点を痛感した。この診療所もいずれなくなる日が来るだろう。1年先か2年先かわからないけれど、町は必ず復興するはずである。この半年間は“がんばろう岩手”を合言葉にがんばってきたけど、被災地で活動する方々には、これからはあまりがんばり過ぎないで自分たちの健康に配慮してほしいと願った。そして今日のように笑顔を絶やさずに明日への希望をもって、そして少し力を抜いてほしいと感じた。

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写真1
写真1 被災された気仙中学校

写真2
写真2 体育館で行われている検案風景

写真3
写真3 仮設診療所 ドアが職員の出入り口

写真4
写真4 お世話になった診療所の看護師さんたち。左から2番目は外科の齋藤盛夫先生