家と人をめぐる視点

第21回

土間に見る、日本人の「ディスタンス」感覚。

編集者 加藤 大志朗

人間の「間」は
もともとは「場」

 約束の時間にはほとんど「間に合わず」、いつも「間の抜けた」表情で、カミさんにお世辞の一つでもいうと、そのときに限ってご機嫌斜め。「間の悪い」ことといったらありません。人間関係のあらゆる場面で「間合い」を誤り、つくづく自分は「間抜け」な「人間」だと思います。

 ここでふと「人間」にも「間」が使われていることに気付きます。広辞苑を引くと①人の住む所。世の中。世間。じんかん。②(社会的存在として人格を中心に考えた)ひと。また、その全体。→人類。③人物。ひとがら。「―ができている」、とあり「人=ひと」の意味は一番目ではなく②以降になっているのです。

 「人間」は仏教語でサンスクリット語「mamusya」の漢訳。もともとは「世の中」や「世間」を意味する言葉とされます。仏教的な考えでは、生きとし生ける者(衆生)は、死ぬと生前の業に応じて生まれ変わるとされ、その行先として天上道、修羅道、畜生道、餓鬼道、地獄道、人間道の6つが示されました(六道輪廻)。

 ここでいう「人間」はまさに「場所」を意味し、中国語でも「人間」は「この世」「世間」などの意味で使われます。日本で人間が「人=ひと」の意味で使われるようになったのは意外に新しく、江戸時代以降になってからといわれています。

不規則性に潜む
独自の空間意識

 音楽にも「間」があります。一般に、西洋の音楽は音や拍子そのもので聴きますが、雅楽や能などの日本の伝統音楽は、音と音の間に存在する、曖昧で不安定な無音の不規則性を楽しむように作られます。

 ここでの「間」に音はありませんが、次の音やリズムに移行するための緊張感を孕んでおり、この空間意識は日本の水墨画や建築でいう「侘び・寂び」とも共通します。

 こうして考えると、本来は人の住む「場所」を表した「人間」ですが、そこに「察する」「推し量る」など、人と人、人と世間(社会)との関係性を加味して「人=ひと」として使うようになった、日本人ならではの心理が見え隠れしてきます。

 第6回「暮らしのなかの「間(ま)」の話」(106号 2017・7)でも取り上げたテーマですが、日本では絵画、俳句、短歌、落語、音楽、建築など多くの分野で「間」が重要視されます。とりわけ、建築の世界で多く使われるのは、日本人に、他の芸術と同じ不規則性を嗜む感覚があるからかもしれません。

日本の「窓」は
間の戸に始まる

 西洋建築は、内と外とを厚い壁で仕切ります。自然界とは遮断するのが基本であり、壁は構造的に重要な役割を担いますので、壁に開ける穴=窓は最小限とされます。

 しかし、日本の建築では、伝統的に柱と梁で構造を支えますので、内外を隔てる壁がなくてもよいわけで、柱と柱の間に空いた空間は全て開口部となります。

 この空間を仕切るのが「間の戸」。「間の戸」は「間戸(まど)」であり「窓」となって、外部の自然とのつながりは強くなり、つながりの部分、つまり内と外との境界部分さえも大事にされてきました。

 その境界部分の代表が、縁側や土間。西洋建築にはテラスがありますが、それは境界部分ではなく、構造体の外部に設置され、景観を眺めるという明確な役割が課せられます。

 言い換えれば、内でも外でもない、目的があってないような境界部分こそ「間」の体現であり、日本の建築は、自然界との遮断を最大の目的としてきた西洋建築の考え方とは対極にあるものといっていいでしょう。

無機能なことに
宿る高い機能性

 戦後の日本の住宅では急速にLDK化が進み、全ての空間に意味付けがなされ、仏間や床の間、土間など曖昧な空間はあっという間に、姿を消してしまいました。

 ご存じの通り、LDKは西洋建築の概念ではなく、1950年代後半に当時の住宅公団が普及させた間取り。その後、困ったことに、公団住宅のみならず、戸建てやマンションなど住宅のほとんど全てのスタンダードになってしまったのです。

 しかし、最近になって、土間を設ける住宅が増えてきました。土間はもともと三和土(たたき)という土にニガリを混ぜて作られましたが、最近はモルタルやタイル、古い線路の枕木などを利用したものも多く見掛けます。断熱性の高い構造が増え、空間を細かく仕切らずとも、快適な温熱環境を維持できることも増加の要因といえます。

 日本人にとって、屋内でありながら靴を履いて過ごす土間は、内でも外でもない、機能を限定しない曖昧な空間です。断熱性の高い開口部で仕切ることで、庭との連続性も確保でき、季節を問わず、家族との団らんや趣味のスペースとしても活用できます。

 咳払い一つするだけで、カミさんからも冷たい視線でにらまれてしまうコロナ禍。他人様とはもちろん、家族間でもソーシャルディスタンスが当たり前とされ、日本人の「間」の感覚も曖昧というわけにはいかなくなりつつあるようです。


かとう だいしろう (文・写真)
Daishiro Kato

1956年北海道生まれ。編集者。これまでに25カ国を訪れ、国際福祉・住宅問題などの分野でルポや写真、エッセイを発表。住宅分野では30年以上にわたり、温熱環境の整備と居住福祉の実現を唱えてきた。主な著書に『現代の国際福祉 アジアへの接近』(中央法規出版)、『家は夏も冬も旨とすべし』(日本評論社)など。出版・編集を手掛けるリヴァープレス社代表(盛岡市)。

もともとは、地面と同じ高さに設けられた土間だが、少し高さを変えることで結界とし、アバウトなエリア分けが可能になる。機能を限定しないことで、機能的な空間と化すパラドクス。 コンクリートやレンガ、タイルなどを敷き詰め、多目的空間としての土間を広く設ける住宅も増えてきた。断熱化が進む今日の住宅では、玄関もリビングも温度はほぼ均一。湿気の問題も解消され、土間はリビングの続きであり、外とのつながりとしても活用できる。
窓を開放すれば庭とつながり、閉じても視覚的なつながりは途切れない。天窓からは終日、安定した採光を確保。厳寒期は日中の日射を蓄熱するダイレクトゲインの機能も兼ねる。 古民家や現存する町家に残る土間は、居住空間と作業空間を断絶させるのではなく、障子や襖を閉めても、音や匂い、人の気配で空間と空間をつなぐ機能を有していた。互いの気配を重んじることで家族の間に礼節が生まれ、社会では互いの気持ちを「察する」ゆとりが育ち、ときに「忖度」というやっかいな関係性の元にも…。

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