郷土の偉人の教え

郷土の偉人の教え(5)

田老の津波防災に尽力した関口松太郎

津波常襲地帯として幾度も大災害に見舞われた田老町(現宮古市)に、「万里の長城」といわれる大防波堤を建設した関口松太郎。昭和8年の三陸大津波では復旧のために力を尽くし、津波防災の礎を築きました。

大災害に不眠不休で対応

 旧田老町役場の前には、東日本大震災の復興を見守るかのように関口松太郎の胸像が建っています。今から80年前、昭和8年(1933)3月3日の大地震で三陸地方が大津波に襲われた時、関口は田老村(現宮古市田老)の村長でした。田老村の被害は大きく、全犠牲者数の3割に当たる911人の命が奪われています。この時、関口村長は71歳の老齢でしたが、不眠不休で復旧に当たり、その後は津波から村を守るために生涯をかけて力を尽くしました。

 地震が起きたのは3月3日の午前2時半頃。大きな揺れが2度もあり、間もなくゴオーという騒音とともに津波が襲ってきました。関口村長は壊滅していく田老の町を下宿していた高台のお寺で茫然と見ているほかありませんでした。

 関口村長は家族の消息を確かめるいとまもなく役場に直行。単身で被害の跡を実見の上、すぐさま県知事と下閉伊支庁長あての文書を村の者に持たせ、宮古に走らせました。文書は走り書きで、食料と炊事用具、衣料、仮小舎設備、医師の派遣を求める内容でした。大災害で混乱している最中、冷静沈着に、迅速的確に事態を把握し、一刻も早く救援の手がさしのべられるように手配したのです。 明けて3月4日、関口村長は「非常災害応急対策に関する件」として臨時村議会を招集。6日に開かれた臨時議会には、次の2つの協議案を提案しました。

一、家を失った村民に対し仮小舎五戸一棟のもの一五〇戸を数カ所に建てるにはどこがよいか。

二、堅牢な防波堤を適当な所に製造する。 この二つ目の案が、後に「万里の長城」と呼ばれた防潮堤構想の始まりであり、「防災の町・田老」の礎になったのです。

 防潮堤の建設工事は昭和9年(1934)3月に着手しました。建設費は当初、村費でしたが関口村長の国や県への働きかけが実り、岩手県の石黒知事が「関口には負けた」と言って国費や県費を投入するに至りました。しかし、「ローマは一日にしてならず」の諺どおり、その完成までには長い年月を要し、関口村長は昭和12年(1937)、志半ばで他界しましたが、その意志を引き継いだ代々の首長と田老町民の並々ならぬ努力により、延長1350メートルにも及ぶ大防潮堤が完成しました。

偉大な功績を顕彰して胸像を建立

 幼少時は腕白だったという関口村長は文久2年(1862、一説には文久3年とも)に花輪村(現宮古市)に生まれました。小中時代は極めて成績優秀で、明治16年(1883)、21歳の時に長沢村(現宮古市)の役場に書記として就職したのが、今の地方公務員としてのスタートになります。その後、下閉伊郡役所、重茂村長、郡役所等を経て46歳で宮古町名誉職町長に当選、5期16年間その職にありました。明治37年の宮古大火では、自宅が焼けるのを目前にしながら役所の防火活動に専念したというエピソードも残っています。

 大正14年(1925)、63歳で田老村長に就任。第一番目の仕事は焼失した小学校の建築で、仕事の合間に現場に駆けつけ、あれこれ指示を出して下閉伊一立派な校舎を完成させたこともあり、村議会の有志も関口村長に一目置くようになったといわれます。

 実直で誠実な仕事ぶりや優れた行政手腕、震災時の迅速的確な差配などを見ていた村人たちが語り合い、その功績を顕彰すべく昭和10年(1935)12月に胸像を建立しました。それは関口村長がまだ生存中のことでした。 しかし、このような取組にもかかわらず東日本大震災の津波では、明治三陸大津波や昭和8年の津波よりも高い19・5メートル(北海道大学地震火山研究観測センターによる)に及ぶ津波が、あの大防潮堤をも越えて侵入し、町は再び壊滅的な被害を受けました。

 東日本大震災津波から3年目、関口村長に見守られて、田老は今復興の途上にあります。

(編集部)

※参考文献 「田老町史」(田老町教育委員会)、「岩手の先人」(日本教育会岩手支部)、「ふるさと田老人物伝」(田老町教育委員会)

大防潮堤

「万里の長城」といわれる大防潮堤(2013年4月撮影)

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